漫画家マンガの世界

漫画家を主人公にしたマンガ「漫画家マンガ」を語ります

オリンピア・キュクロス(第2巻)

『オリンピア・キュクロス』 ヤマザキマリ


まだ『重版出来』を読み進め中だが、またまたまた脱線。
表紙を書店で見かけ、手塚治虫が描かれている!と、思わず買ってしまった。


手塚は自分の漫画に自分を出したがる人だった。
『バンパイヤ』のように主人公級の活躍をさせたこともあった。
(狼男の苦悩を描くフィクションに、現実の作者が出てくる)
他の漫画家からもしきりに描かれたが(『劇画漂流』にまで!)、それは当然。
手塚はつねに漫画家たちに背中を見せて、前を疾走していたのだ。
当時の漫画家の視野には手塚が必ずいた。


そのことが描かれている、と表紙を見て勝手に想像した。
運動音痴と自称していた手塚だが、中学時代には長距離走で賞をもらったそうだ(と自伝に書いてある)。
私の頭の中では手塚と長距離ランナーは無理なく結びついている。


でこの『オリンピア・キュクロス』。
タイムスリップものであり、主人公の古代ギリシアの青年はまったく作者の都合のままに時空間を跳んでしまう。
『テルマエ・ロマエ』の露骨な二番煎じ。
その点を批判する人は多いだろう。
けれどもう批判するのがバカバカしいほどの見事な二番煎じ、と私は思った。
むしろ開き直って、テルマエの第二部と称すべきものだ。


仕掛けはテルマエと同じだが作者の言いたいテーマは違い、本作では古代ギリシアのオリンピック競技と、1964年の東京オリンピックが比較される。


私にとっては1964年という年は特別な年だった。
中学に進学した私は、小学生の時には禁じられていた漫画を自由に読めるようになった。
読書は好きだったからことさら漫画を必要としてはいなかったが、この年に決定的な作品に巡り合う。
手塚治虫の『キャプテンKen』と『白いパイロット』の鈴木出版版だ。
4巻完結のはずなのに、この二作は(出版社の都合で)3巻までしか出なかった。


鈴木出版版で初めて読んだ(連載を読まなかった)年少読者は皆、ラストを想像して「結局どうなったんだ?」と気が狂いそうになったと思う。
私もその一人で、毎晩この二作の続きを考えながら眠り、文字通り夢にまで見た。
(松本零士の『古本屋古本堂』という短編に、そういう読者の精神状態がおそろしくよく表されている)
私はその渇望を抱えたまま成長し、ために今なお漫画マニアであり、これは死ぬまで変わらないだろう。


つまり私は、東京オリンピックの年から漫画マニアとして生まれ変わった。
運動嫌いだからオリンピック自体には関心がなかったが、その年の様子ははっきり覚えているのだ。


作者ヤマザキマリは私より7歳年下(1957年生)らしいが、思い出は私とそう変わらない。
時空を跳んで過去の東京に現れたギリシア青年は、手塚治虫に会い手塚の漫画論を聴く。


オリンピックを描こうとしているからには、おそらく手塚の次に描かれた人物、円谷幸吉のほうが重要なのだろう。
けれど手塚を描かなければいられなかった作者の気持ちはわかる気がするのだ。
この年、手塚治虫に会ったために人生が変わった…


いや、円谷幸吉のキャラも大変真に迫り、その死のシーンに立ち会う主人公の思いも、作者の思いとどこかしらで重なっていると思われる。
スポーツって何?
芸術って何?
好きに描いちゃいけないの?
好きに走っちゃいけないの?
キャラのぶつけてくる疑問が、ストレートに伝わってくる。